昭和52年07月14日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、貰いに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
今朝私はご神前で、ある人が雨が降ってきたと言うて傘をこう開げた所が、そう開げたが開けた傘がもう全然使いものにならぬ様にくずれておると言う様子を頂きました。いわゆる信心を頂いておるから、信心を頂いておるからと、愈々の時には神様がござるからと例えば言う様に信心を頂いとるかの様にあるけれども、愈々の時にその信心が役に立つていないと言う事だと思ったのです。そしたらこの五十八節でした。
例えば本当に自分が泥棒でもなければ、乞食でもないのに乞食だと言われたり泥棒だと言われたり、ですからそれこそ神様が覽ておいでの世界に生きゐく事だと言われておるのですから、この人は分からんからああ言っておるんだ、知らないからああ言っておるんだと、いや誤解しておるんだと、と思うから腹も立たんけども突嗟にそう言われると、いつ俺が泥棒したか、いつ乞食したかと言う様に腹をすぐ立てると言う事がです、日頃の信心はどこえやら。
五十九節に習うた事を忘れて、と言う所がありますが習った事を忘れておると言う事でなくて、習ったことを一つも身に付けていない。忘れていると言うならまあ思い出すと言う事もあるけども習った事を一つもそれを勉強してない、それを身につけ様としてないと言う事だと私は思う。信心が役に立っていない、信心の帯をしっかりせよと仰る事はね、どう言う様な時でも信心がしっかりあっとれば【】それを受け止める、又は有り難く受け止めれる。
いや急に降り出したと言うても傘を持ってさえおれば一つもゐれないで済む様なおかげを頂いとかねげならん、所が降って来たから持っておる積りであった、信心を頂いとる積りであったけれども愈々の時は、もうお役に立てなかったと言う事では【】昨日十三日会で、桜井先生が発表しとられましたけれども本当に自分と言うものを【】く見極めてそして自分の信心を思う時に本当にそれが【】実感だっただろうと思ったんですけど、先生から昼の御理解に頂いた魚釣る人見てる人。
と言う御理解を頂いた時にもう私は私自身ああもう【】年の信心をしてきたけれども、釣る人にならねばならんのに限りないおかげに浴して行けるのに、自分は只腕独楽ゐいて魚釣る人を見ておるだけともう途端に感じた、本気でこう言う人にならなければと言う発表しとりましたですね。おかげは受け得受け勝ちと、神様がなら〈何ぼでも〉おかげを頂いていけよ、持って行けよと言うておられる、言うなら魚を釣っておる人に、もう今日は何匹釣ったけんこん位で止めとけと言われる事は絶対無い。
言うなら腕と技術と言うか、【】と言うか、限りなく天地の親神様はそれこそ無償でおかげを下さる.ね.お前は百匹取ったけん代わりにあれを置いとけと言う事はないでしょうが、天地の親神様といへばそう言う方なのです、成程おかげは受け得であり受け勝ちである、それにはやはり自分が本気で【】なきゃならないね、川の中にも入らなきゃならない、釣り竿の準備もせなけりやならん、餌も勿論用意せなければならん、そして投げ込んでからすぐ釣れたと言う事はない。
それは言うなら、釣り三味と言うから釣りには釣りの一つの三味境と言うとがある言うならば釣れるまで辛抱しとくと言う、おかげは受け得く受け勝ちち、そう言う三味境にひたらせて頂いとるときならば間違いないです。信心の有り難さをかみしめさせて貰い、本当に有り難い、勿体ないと頂かせて頂いとるときそれが只腕こまねいとるだけでそれを習おうともしなければ実行しょうともしない。
私昨日の私自分でお話させて頂き乍らいつもの通りにお話しをする、お話を昨日ほど実感的にあヽこれは私を含めて、もう皆がこの程度の信心から見て【】いないのじやなかろうかと、昨日は神様に信用されると言う事、文男先生が発表しとりました誰しもが神様の信用を頂きたいと思うのは誰でも思っとるだろうけれどもと言いました、その話を聞いてから本当に神様の御信用を頂きたいと思っとるものは本当に少ないのです。
只おかげを頂きたい、おかげを頂きたいと言う者は、実を言うたらもう皆が皆おかげを頂きたいと思わゐ者はありません、けれども神様の御信用が頂きたいと願うておる者は極く稀です。だから神様の御信用を頂くためには自分自身が信用できる私、人が信用してくれる私、そのことで例え話で笑い話があります、ある人が奥さんが大変難産で苦しんでいる。そこでお上棚の御神燈を上げて一生懸命拝み出した。どうぞ安産のおかげを頂かしてくれる様にと言うのです。
そして神様に誓いを立てている、安産のおかげを頂いたならば金の燈籠をお供えする様な事を言っておる、それをまあ苦しい息の下から家内が、ちょいとあなた金の燈籠ばお供えするてんなんてんお父さんそげなことが大体出来るとですかちから言うた。そしたら親父が言うたことが今神様をだまくらかしよる所だから早う産めと言ったと言うお話なんです。私はそう言う部類の人が沢山おりはせんかと。
朝参りを続けます家族中で修行に参加します、朝参りを何カ月続けます、家族中で修行に参加します、と言った様な事はまあざらにある事ですけど、もっともっとその嘘だけは神様が愈々受けなさらんという、言うならば信用どころか、もうあの氏子は詰らんと言われる様な神様から信用を頂くじやなくて、信用を落として行く様なね、私は信心をしている様な人がありはんかと言う事でございます。
それでいて矢張り信心を続けて、ならば目先目先のおかげを受けられたに致しましても、神様の御信用を受けて御神徳が頂けると言う様な、愈々あの世にも持って行け、この世にも残しておけると言う様なお徳の頂ける事は先ずないと言う事です、だから神様の御信用を頂けると言う事神様の御信用が頂きたいと思うて、日参であり修行でありとするならば先日からここの修行生の方達に話した事でしたあなた方の場合はもう一生神様に身も心も捧げておられる方たちばかりなんだ。
しかも教職を頂いとる人達ばっかりなんだ、いつでも神様がサア一布教へ出るといへばいつでも何処へでも行かなければならない立場の方達なんだ。そこでなら布教に出るからには、お徳を頂いとかなければとても出来ることではない。それをならば末永先生が手紙の中に昨日山本さんに出しとる手紙の中に繰り返し言っておる事は、もう合楽理念に基づく以外にはないと言ってます。特に海外布教言葉が通じない。言うならすべての点に、言うならば分からん事ばっかりの中にあってです。
人が助かる御用をさして頂くと言う事は並大抵の事ではない。並々の事ではないけれども合楽理念を基礎とし基にしてするならばです、どこに行っても人間の難儀の様相と言うものは同じであるから、あの合楽理念を基にしてお取次を頂くならば必ず人が助かるとこう言う事である。だから神様のご信用を愈々頂く事のために、合楽理念のマスタ-そしてそれを行じて行く生活。今日もどうぞ神様あなたの心に適う一日であります様にと言う事は合楽理念を、ひもとけばすぐ分かる事です。
しかも決して見易い事ではない、いつもしっかり信心の帯をしておるならば会楽理念の行者として、今日も一日おかげを頂きましたとお礼が言えれる内容である、ですからあなた方の場合は、合楽にこうやって御縁を頂いて、言うなら一日中神様の働きの間違いなさ、段々信心をしておってもです、果たして神様が本当にござるのぢゃろうか、自分はこんな信心をしよるが、こんな事で良いだろうかと言ったり思ったりしておる教師信者が金光教の信者の中にもどれだけあるかしれません。
もう神様が信じられん様になったという、信者がどの位あるか分からん。そういう意味で合楽に御縁を頂いとる人達は、この様にも間違いのない働きと言うものを目のあたり見たり聞いたりしておる。その中でも教会修行させて頂いておる先生方の場合なんかは、神様のこんなにも間違いのない働きを見聞きしとるのだから神様を信じると言う事はもう出来た様なものだから、これからはもう神様に信じられる行き方を身につけていく以外ないよと、言うわけです。
そこで自分の今言っておる事行っておる事がです、果たして神様のご信用頂ける様な内容であろうかと検討して、日々を過ごして行きゃそれで良いのだ。すこし難しうても分からん時には合楽理念をひもといたら良いんだ、そこには手立てが書いてある。にはこう言う行き方になればと書いてある。教えてある。それにもまず私は信心の帯をしっかりしておかねば、神を信ずるも信じられるも言うならば。
神の言う事を忘れてしもうてではなくて、神の言う事を一つも聞いていない事になるとです。信じる事も出来なければ信じられる事は尚更出来ない。信じる事信じられる事だけではない、もう神様からもうあの氏子はつまらんと例えば言われる様な事にもなり兼ねない。心にもない事を神様に金の燈籠でもお供えする様に言うて、言うならば拝んでおる様な信心しておる様な人は無いだろうか。
もうこれは沢山あるのです例を言うなら。それは言っておる時には成程嘘じゃないかもしれません、けどもそこに焦点を置いて辛抱の力を養って行く。折角頂いておる信心、また自分も頂いておると思うておる。けれどもいよ々ア-降ってきたと言う時に開いて見たらその傘は破れておった。そう言う繰り返しをすることのない信心。言うなら信心の帯をしっかりして、どう言う場合であっても、どっこいと受け留めれる、どう言う場合であっても傘がさせれる、熱い思いをせんで済む。
濡れんで済む様なおかげを頂くために、しっかり信心の帯をせなければならない。お互い自分の信心を自問自答してみるがよい。果たして自分は信心を頂いておると思ったけれども、頂いておる積りであって、いざと言う時に役に立っておらん様な事がありはせんだろうか。するともっと確かな信心を、頂かなければならない。もっと確かな信心とは、神様を信じそして、神様から信じられる行き方を身に付けて行くと言う様な、信心だと思うのですね。
どうぞ。